寄稿 -自分史より 熊本時代- 髙畑静男様(S20年熊本工業専門学校卒)

2017年06月05日(月)
 私は昭和十八年四月八日前に、熊本工専(現熊本大学)に入学手続きが終わり、同日寄宿舎の入寮手続きも完了。五一年間の寮生活を始めるようになった。寮生活は楽しい筈のものであったが、戦時下食糧不足のためか食事は粗末なものであった。
 学内授業は土木工学科朝の徳広先生が白髪交じりの高齢の方で、教科は地質学、応用力学、採鉱冶金(やきん)学で特に地球内のマグマの動き等の説明を面白く聞いたものである。我々の担任は園田先生で、この人も白髪交じりの温厚な人柄で教科は建築材料と測量学で、先生からは設計製図の宿題に悩まされたものである。
 また、吉田彌七先生の教科は道路、橋梁、鉄筋コンクリートで、熊本工業学校の先輩でもあり、アメリカのカリフォルニア工科大学に留学された特出の経歴の持ち主でもある。先生の教壇での様子の思い出は、髪はオールバックで、何か遠くを見ているような姿勢でお洒落(しゃれ)な人であった。当時は、軍部の目が厳しい時に、平気で生(なま)の英語を喋(しゃべ)りながら、アメリカの事を得意げに語っておられた。アメリカが敵国であったとはいえ、その内容は珍しく聞いたものである。コンクリートをカンクリーッ、カリフォルニアをキャルフォーニと発音していた。
 福井先生は橋梁設計系図の教科で色白の好男子であった。いつの縞柄の紺のスーツを着て教壇に立ち、ニコニコと喋っていたのを思い出す。前田先生からは測量の実技の実習を受けた。ある時、学校裏の白川の川原で実習があった時。測量機の扱いが乱暴であると、ひどく叱られたことがあった。従って測量の成績が最低であったに違いないと反省していた。
 第二次大戦もいよいよ熾烈(しれつ)を極めてきた時、私達熊本工専の学生も国策に沿い国土防衛のために、昭和十九年六月から昭和二十年六月までの一年間、学業を一時休止して、クラスの者と三班に分かれ、北九州、佐世保、広島へとそれぞれ学徒動員された。私は西部軍管区北九州小倉の山田舞台にクラスメートと二人で配属された。後に沖縄出身の工業学校の生徒と三人になるが、十五坪ほどの事務所に五坪の畳敷の間仕切りが在って、そこで、三人が勤務しながら寝食を共にすることになった。事務所の隣には古い家に老夫婦が住んでいて、私たちの食事の用意をしてくれた。この人は元の地主で、外見では事務所とその二軒が広野にポツンと在るように見えるが、地下は多くの濠がひしめいていた。
 山田部隊とは陸軍の弾薬を貯蔵する施設で、広大な敷地に沢山の地下防空壕が在ったが、私共はその区域には立ち入りできなかった。
私達に軍服が支給された。極(き)まった任務は無かったが、一度だけ日豊沿線のどこかに、軍の車に乗せられて連れて行かれた事がある。陸軍の防空壕建設のためのトンネルの測量であった。その当時、いよいよ米軍が東九州に戦前上陸するのに備えるための陣地であった。私共は学生であったが、兵隊から将校並みの扱いを受けたので面食らっていた。
 測量には誤差が出て兵隊から笑われた。昭和十九年の八月頃、各科の学生で体の弱い者約三十五名が集められて、熊本の天草に二泊三日の訓練が行われた。訓練とは言え水泳であった。集合場所は宇土町役場で点呼の後、三角港に向かって行進した。三角の島原湾は干満の差が大潮のときで三米五十糎、彼岸潮では六米となるので、満潮の時間を待って出港した。船中、先生より説明があって、三角港と北方の向かいにある島原半島の高台には有名な天草四郎時貞の原城が遠望された。出港後数十分の後、島原諸島の先端にある牛深港※に入った。港には旅館が三軒在って、その周りに集落があった。当時自疎初頭には人口が千人くらいと聞いていたが、現在は宅地開発が進み、二万人の集落に発展していると聞いている。この大戦下に、水泳ができるとは何故であろうかと、不思議でならない。陸海軍の兵士の事を思いやりながら考えた。そのうち周囲の先生方を見ていると、その謎が解けた。それは、先生たちの行為にあった。あの配属将校さえくつろいでいる姿は、我々以上だと感じた。軍人といえども同じ人間であった、戦争という囲縛(いばく)から逃れたいのだ。我等が水泳に興じている上空を米軍の艦隊機グラマンが編隊を組んで北九州方面に飛んで行った。何とも奇妙な風景であった。
 朝食を二階の長いテーブルを囲んで済ませると、水泳の時間が来た。港の一角においた漁師が一艘の小舟を艪(ろ)で繰りながら我等の水泳を注意していた。牛深港※は潮の流れが速く、満潮の時でも、返し潮で沖に引かれて危険が在ると言っていた。泳ぎながら沖を見ると、海面が丸くふくらんで迫ってくる。恐ろしい感じであった。一時間の水泳も終わり熊本に帰還する前夜の夕食後に奇妙な事件が起こった。二階の各テーブルの上に盛られた大皿には大量のうなぎが盛られていた。その前日にはうなぎが籠一杯の大漁があって、今日は朝から焼いていたそうである。その食欲は学生だけに限らず同行の人すべてである。しかし、その時私は別の食卓に座っていた。そこには鯛にすずき、たこの刺身が並んでいた。この宿には私と同年配の娘が二人居て、宿の雑用を加勢していた。一人はこの宿の娘らしく、いつも首に白い包帯を巻いて咳をしていて気味が悪く、もう一人は頑丈そうだが色が黒い。そこで私はなぜ私だけにこのようなご馳走を振舞ってくれるのかと聞くと、首の包帯の女が、「タヱちゃんに聞いてみな」と言う。色黒の女のことをタヱと言うらしい。「わたい髙畑さんとづっこけてんよかったィ」私はその意味が全く分かりません。入学当初以来、熊本弁がわからず、教室の前の高巣君と後ろの席の高本君が私の頭越しに一方が「そがどけつにやん」片方は「くれんくれん」と言う。高巣君は山我※の生まれで高本君は宇土の方という。後に学校が始まった時に、黒女の「づっこけ」の意味を聞くと高巣君は笑いながら「髙畑君、その黒ん坊はあんたに惚れとったつばい。色の黒かつは海女ぢゃ、海女は気が荒かつけん、そげんこつぐらいあ平気で言うばいた。」結局「づっこける」という言葉は「寝る」という意味であった。なんとも娘の発言とは思えんが、戦時中で青年は糎に行き、男日照りの時に三十五人の若人が、一挙に押し寄せた田野だから無理もない。一方、うなぎの贅沢にあづかった人達は、その頃、あたかも栄養不足の折柄、堪えきれんもので腹一杯食べたのは言うまでもない、問題はその後である。配属将校が腹痛で苦しんでいるという噂が広がり、皆が心配して熊本への帰還が何時になるだろうかという事であった。しかし、その後、下痢患者が続出するに及んで、うなぎの食い過ぎであることが判明した。病気に軍事も平時もである。その中に、この様な優遇を受けたことは不思議という外はない。
夕日の入る時、宿の二階の欄干に烏が留まったように、並んだ景色は全く優雅であり、遠い波聞に赤い夕日の沈む瞬間はすべての苦悩を取り除いてくれる。学徒動員後新学期が始まり、住居をさがすことになり、第五高等学校の東側に下宿屋があることを聞いた。ようやく、探しあてる事ができたが、そこは、国道より立田山に行く道沿いであった。そこの下宿時代にあった最も辛い思い出は食事が配給食で毎日のようにカボチヤとカタクリの湯溶きで殆ど飢餓状態で数カ月間過ごしました。一日中食べる事しか考えないで、勉強どころの状態ではなかった。五間(いつま)に五人の下宿人の一人が私の隣室、第五高等学校の教授でした。ある時、先生が「高畑君、中国の故事に『金の卵を産む鶏は金の餌を食う』という諺(ことわざ)がある。俺達も金の餌を探しに行くか」と、羊の買い出しに誘われました。喜んでそれに従ったのは言うまでもない。
 下宿より国道を東方向に、たどって三里木という所を過ぎると「ケングン※3」という部落に芋畑が並んでおり、そこの一軒にたどり着いて、ようやく芋を手に入れることができた。芋を担いで帰途についたが体力も無く死にそうになった。五高の先生は私の兄より年上で三十歳台の何を食べているのか頗(すこぶ)る元気が良く、道すがらも帰途の半分以上は扱いでくれた。私はこの先生を兄のように思えた。
 私の兄は子飼い橋※4を渡れば陸軍の連隊があり、熊本連隊の二十二部隊の工兵隊に所属していた。子飼い橋は学校のすぐそばで兵舎は真正面に見えた。この頃には既に前線に出ていたものと思う。兄はとても私を可愛がってくれ、私が入学当初に一度だけ会いに来てくれて、市内のレストランに連れて行ってくれた。
ある時、五高の先生が「髙畑君、立田山に登ってみようぢゃないか」と、誘われたので追いて行くことにした。その日はあまり体調が良くなかったが、いつも世話になっていたので断り切れなかった。登り道をしばらく行ったところで先生が「髙畑君よ。上から夏目先生が『オーイ』と言ってるぞ」と、笑いながら言う。私は坂の上の方を仰ぎ見た途端、意識が無くなって後は記憶になく、軽い脳貧血を起こしていた。後に話を聞けば、先生は大変心配されて、近所の農家にリヤカーを借りて下宿まで送ってくれたそうです。翌日、部屋の机の上に卵が三個置いてあった。『オーイ』とは無論夏目漱石の作品「峠の茶屋」の冒頭である。

 
文章の体裁は本文のまま。文中のカッコ書きの中は髙畑氏記載の読み仮名。
※は地理、地名の勘違いではないかと思われる部分。下記に蘇遙会会長北園氏による校正案を記す。
※1 牛深港 → 口之津港
※2 山我 → 山鹿(ヤマガ)
※3 ケングン → 津久礼 又は 原水
※4 子飼い橋 → 子飼橋


コメントする