拝啓 熊本大学工学部土木工学科昭和43年卒同期会の近況報告です。
令和6年11月7日に、温泉旅館玉名温泉さつき別荘にて、4年ぶりの再会を喜び、お互いの近況談話などに花を咲かせました。
卒業した頃の世相は、高度成長時代のまっただなかで、土曜日が半ドンになったのが夢みたいでした。現在は三連休がざらですが・・・
モーレツ社員の一員として、良いにつけ、悪いにつけ、日本の成長を支えたことにもなるのでしょうか?
実質経済成長率が年平均10パーセント越えの時代でもありました。
その結果、建設従事者にとって、騒音、振動・・・等典型型7公害への検討、対策が求められるようになりました。
きがつけば、同期会の面々は、卒業後、早や56年余りとなり、年齢的には傘寿を迎える齢となります。
さすがに、参加人数も、夫婦同伴者も含めて12人です。このような状況では、クラス全体としての同期会の継続は難しいと判断し、一旦、現在の同期会をリセットすることにしました。
今後は、モバイル連絡手段を利用することで、簡単に有志が集うができます。このような有志の茶飲み会的なものを期待します。
多くの、恩師の方たちが逝去されているなか、92歳の平井一男名誉教授が、あの懐かしい金峰山を舞台に、速歩と山登りで、健康長寿を達成されている寄稿文を読ませていただき感銘しました。
まだまだ多くの思い出を書きたいのですが、ここまでも長々した長文になっていますので筆をおきます。
平井先生の寄稿文(8頁程度)は、熊本大学工業会事務局に問い合わせれば、手に入るようです。
(または、工業会のHPに掲載されていますので、こちらの青字からご覧ください。会報108号掲載 平井一男名誉教授ご寄稿(44p)_続きについて | 熊本大学工業会
  令和6年 11月22日
敬具
(執筆者 佐熊 剛 氏 S44年卒)
 

 S43年卒同期会の繰越金(¥55,781)を上記同期会に出席された皆様のご意向のもと、蘇遙会へご寄付いただきました。頂戴した寄付金は、在学生の支援及び蘇遙会運営に、有意義に使用させていただきます。この場をお借りして、お礼申し上げますとともに、皆様の益々のご健勝とご多幸を心よりお祈りいたします。
蘇遙会会長 山尾敏孝 
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【蘇遙会と私】
 私は、昭和59年4月に土木工学科に入学しました。その2年前に、今の『蘇遙会』の前身?にあたる、学生のみで組織され、学生と先生の親睦を図る目的で「蘇遙会」が誕生しました。私は、そのメンバーの一人で、1年生の時は親睦委員を担当しました。今の『蘇遙会』のマークはこの年にできました。
 最初の会合は、旧「知命堂」で開催され、4年生の会長から会の趣旨、マークの意味、各種委員の役割などの話がありました。当時は、北園先生が、世話役として関わってくださいました。直近の4月の新歓コンパで、大変厳しい(笑)歓迎を受け、恐る恐る会合に参加しましたが、先輩方はとても優しく、安どしたことを今でも覚えています。七夕コンパ、駅伝大会などなど、沢山のイベントを企画し、多くの方々と親睦を深めることができ、嬉しく思いました。
 私が4年生の時、第6代の「蘇遙会」会長をさせていただきました。当時、工学部が90周年記念行事を行っていましたので、「蘇遙会」として何かできないかと考え、「蘇遙会テレホンカード」を100枚作製しました。私が勝手にデザインしました。土木系教室の前にいた私に、テレカを見た当時の建築系教室の牧野教授(熊大建築卒、建築応援団OB)から、「土木らしいデザインだなあ」と微笑みなら、コメントをいただいたことを思い出します(当時の土木に、大変理解のある先生でした)。「熊大土木」「剛毅朴訥」「蘇遙会」という語句と大学、高専、蘇遙会のマークを単純に並べ、白地に黒文字という、いわゆる「熊大土木カラー」の素朴で単純なデザインでした。それが、いい意味で「土木らしい」と言ってくださったのかな?と勝手に解釈しました。
 昭和62年秋に作製したこのテレカは、未使用のまま40年間、熊大を離れて、私の手元で保管していました(当時1枚だけ購入)が、先日、『蘇遙会』に贈呈(いや、返還? 里帰り?)させていただきました。
 私は今年9月で還暦を迎え、改めてこれまでの人生を振り返ると、「熊大土木」「蘇遙会」で過ごした4年間が、私の中で最大級の思い出です。
 最後になりますが、教室の先生や、学生、卒業生の方々の、今後の益々のご活躍とご健勝を祈念したします。( フレー、フレー 土木 !!)

        

 
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 令和5年7月11日(火)~12日(水)にかけて、昭和46年土木卒業を中心にした「熊大土木46年会」を4年ぶりに開催しました。今回は初めて大分・別府で大分在住の津末君が計画してくれました。11日午前11時30分にJR別府駅に集合しました。集合予定の荒木君は九州横断自動車道(大分道)が前日の豪雨で朝倉IC付近が被災のため、通行止めで遠回りを余儀なくされ、間に合わず、夕方からの参加になりました。別府駅に集合した8名(河野(熊本)、庄司(関東)、菅原(関東)、津末(大分)、春野(福岡)、宮崎(広島)、由留部(熊本)、北園(熊本))で車に乗り合わせて、別府鉄輪温泉にある地獄蒸し工房に移動し、昼食に地獄蒸しを賞味しました。津末君が準備してくれた大量の食材に舌鼓を打ち、満腹になりました。昼食後、別府温泉保養ランドに移動し、泥湯体験をしました。露天風呂もありましたが、少々熱くてゆっくり入れませんでしたが、内湯で入り直し、泥湯を満喫しました。
                
昼食の地獄蒸し(別府鉄輪温泉)

 その後、別府から大分市内に移動し宿泊するホテルで一休みした後、午後5時30分に遅れた福岡の荒木君と関東からの笹谷君、鹿児島からの矢元君と合流し、合計11名で大分市内の日本料理店の「竜馬」で午後6時から宴会を始めました。大分ということでみんなが期待していた「ふぐ刺し」「関サバ」「関あじ」の御相伴にあずかりました。また、お酒は「ひれ酒」も味見出来ました。宴たけなわになった所で、参加者の近況報告を行いました。最後に不参加者の近況をメモしたものを北園から報告し、都合の付かなかった者、体調不良の者を紹介しました。そして、次回の開催地を皆さんの便利がよい福岡に決め、アッという間に楽しい2時間が過ぎてしまいました。その後、宿泊するホテルのすぐ近くのスナックで2次会になりました。みんなでカラオケを熱唱し楽しんだ後、午後11時頃にホテルに帰り着きました。
 12日は朝食後、解散になりましたが、時間の許すものは豊後大野市の沈堕の滝を見学し、その後道の駅「きよかわ」の「神楽亭」で豊後牛の焼肉とホルモン焼きを昼食にとりました。その後、竹田市の土木遺産の「白水ダム」の見学に向いましたが、道に不案内だったことと、天候が崩れそうだったため、途中で断念して、帰途に着きました。やはり途中で豪雨に見舞われ、視界が不良になりながらもなんとか帰宅出来ました。お疲れ様でした。
        

熊大土木46年会 令和5年7月11日(於:別府・大分)


 今回、都合がつかなかった人も次回は参加してくれると思います。それでは次回の福岡での再会を楽しみにしています。
(文責:S46年卒 北園芳人氏)
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 昭和44年入学生は全体の入学式典は学園紛争で中止となりました。それでもクラス仲間の交流は盛んでクラ討、コンパ、運動会、女子大との合ハイ等があり、また一年生からコンクリート、測量、水理、土質と専門科目の講義がありました。

 卒業してからは、全国各地で恩師をお呼びしてのクラス会を開催し、近況を仲良く励ましあってきました。
 個人個人は色々な都合がある中でコンスタントに25名前後と高い参加率を維持できました。
 以下に入学当時の写真と昨年11月に開催したクラス会の写真、クラス会の開催履歴を添えています。(※令和6年8月に写真を追加掲載しています。)

 若い卒業生の皆さんは、職場、自宅周辺の近くにいる仲間と連絡を取りあって、また出張宿泊等がある場合は近くにいる仲間と事前連絡しあって情報交換していく努力を惜しまないで下さい。
 利害損得のない学生時代の仲間が、「何物にもかえがたい一番の宝」です。


昭和44年入学時北地区教養の屋上


昭和45年11月運動会棒倒し


昭和45年11月運動会士建団フラダンス【橋(土木)と熊本城(建築)を製作】


大運動会11連覇達成記念タオル


昭和48年追い出されコンパ


平成18年(昭和81年)11月in兵庫県有馬温泉


令和4年(昭和97年)11月in鹿児島


 
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倉原民良氏 寄稿追加資料

2021年09月29日(水)
2021年度情報誌に掲載いたしました昭和35年卒 倉原 民良 氏の寄稿文で、紙面の都合上掲載できなかった参考資料名、お写真とご自作の漢詩をご紹介します。
<参考資料>  
◇瀬戸大橋事後評価5_23 PDF
波床正敏(大阪産業大学)著
「瀬戸大橋架橋30年の影響に関する事後評価」
―国土計画上の整備目的に関する達成状況についてー
◇本州四国連絡橋 児島・坂出ルート(㈶海洋架橋調査会
◇瀬戸大橋パンフレット(香川県)
◇共用部南舗装工事報告書(日本鋪道㈱四国支店)

<写真の説明>
①昭和34年 国道3号川尻での軟弱地盤載荷試験作業時の写真
 
写真左端 倉原 良民 氏(S35卒)
後列左より 長友 秀実 氏(S35卒)、
  中原 郁夫 氏(S35卒)、
  神毛 英一 氏(S35卒)
前列左より 建設省職員(2名)、
  園田 頼孝 先生


②昭和63年2月  北備讃大橋 主塔 塔頂にて(倉原 良民 氏)
 

③漢詩「ああ 南北備讃大橋」(倉原 民良 氏 作)
 開通年の正月に私の思いを作詞したものです。

ああ南北備讃大橋

旭日に映ゆ瀬戸大橋    主塔は聳え架線は光耀たり
塔頂に立ちて眺む瀬戸の景 悲願百年四国の島
愈々開通す戊申の春    歳月は速く既に十年が経つ
世界に誇る日本の技術   新春に想う四国の発展
四塔は並ぶ讃岐富士    支間は跨ぐ国際航路
与島が繋ぐ四国と中国   力合わすべし与讃阿土
隣接す美姿斜張橋     翼鳥に似て楊貴妃を想う
ともに奏でる瀬戸内の曲  ああ南北備讃大橋
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 毎年、吉満様(横浜市在住)からは、ご自分でパソコンを使って作成されたお手紙やお写真などを送っていただいております。
昭和16年12月に熊本高等工業学校を卒業された吉満様は、今年百寿を迎えられました。
 蘇遙会会員の中でご連絡の取れる方としてはおそらく最高齢と思われます。熊本高等工業学校卒業後に入隊され、終戦後に石油系の大手企業に就職し、定年まで勤めあげられました。
 2020年9月にいただいたお手紙の中から一部をご紹介いたします。

 すっかりご無沙汰しましたが、蘇遙会の皆さんは益々お元気で各方面で活躍されていると思います。大変、ご苦労様です。皆さんの素晴らしい活躍、楽しいお便りで蘇遙会が益々楽しくなってきました。大変嬉しい。お陰様で私も元気、何時の間にか私も100歳になりびっくり、これも、皆さんの温かいご支援の御蔭と深く感謝しております。
 今年は、熊本地方は大変な暴風雨でしたね。熊本市内、大学周辺も大変だったでしょう。異常はなかったでしょうか。それに今年は、連日のようにコロナウイルスの厳しい報道。今年は色々、大変つらい年でした。
 さて、先日こちらでは恒例の「芸術祭」がありました。今年は3「密」でみんなマスクして厳しいでしたが、皆さんから色々作品が提示され楽しい「芸術祭」でした。
 私は今年は内外の懐かしい写真を7枚紹介しました。これが望外の好評でびっくり。これは是非、蘇遙会の皆さんにも紹介したくなりました。ゆっくり楽しんでください。
100歳の年寄りが贈る内外の懐かしい写真です。蘇遙会の皆さんもみんな一緒に楽しんでもらえれば嬉しいです。
平成22年撮影 左下が吉満氏
画像を画像をクリックするとPDFが開きます。





 
令和2年9月12日 吉満 肇

突然、思いもしないところから素晴らしいプレゼントをもらい(中略)大変感動しました。これで百歳になった喜びがこみ上げてきました。これはわが生涯の喜びと思い、蘇遙会の皆様にお知らせしたくなりました。
 
令和2年9月17日 吉満 肇
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私は昭和16年12月、太平洋戦争(当時は大東亜戦争と呼んでいた)開戦と同時に熊本工業学校、卒、翌年2月1日、西武22部隊(熊本)に入隊した第1次学徒出陣組です。すぐ中支予備士官学校(現在の中国、南京)、ここで俄か将校にしたてられ、以後、各地転戦、終戦は4000キロ南方のニューギニャの昼なお暗いジャングルの中でした。

昭和20年8月15日、終戦、
戦争が終わっても帰る船がなく、やっと帰国できたのは翌年、昭和21年7月14日和歌山県、田辺港でした。ニューギニャの戦死者は2万人以上、その大部分は餓死、戦病死と言われているので、私たちは、まさに死に損ないの敗残兵、悲痛な思いの帰国でした。 
戦後、知人の紹介でモービル石油(世界最大の石油会社)に入社、昭和55年、同社を定年退職しました。(3年間学んだ土木業務とは関係の少ない会社でした)
 
蘇遙会の皆さんの各地の楽しい素晴らしい活躍、毎年、楽しく拝見しています…
見ていると自分も一緒に活躍しているようで、旅行しているようで楽しくなり新しい元気が湧いてきます、お忙しいのに、こんな年寄りにまで、何時までも、このような楽しいお便りをいただき、感謝、感謝です、ありがとうございます。
 
しかし、私は、もう98歳、80年も遠い昔、熊本時代の懐かしい学友たちの音信がなくなりました、また、先の戦争でニューギニャで一緒に苦闘した戦友たちの音信もなくなり大変寂しくなってきました、しかし、先日、9月17日、こちらの敬老会(役80名参加)で別紙のようなうれしい白寿記念状をもらい、また、新しい歓び、元気が湧いてきました。
即ち、支配人が、突然、私を呼び、益々お元気な白寿の吉満さんでーすと、みんなに私を紹介されたので、びっくり、場内から一斉に拍手、嬉しい悲鳴でした。楽しい敬老祝賀会でした。(このような昔の諺は、昔の数え年で祝うそうです)、
 
私は足腰が弱り歩行困難、それに年々物忘れがひどくなってきましたので惚け防止に…と、白黒の石を並べたり、パソコンをいじったりして、なんとか頑張っています、よろしくお願いします。ここでも私が最高齢のようで吉満先輩と呼ばれ恐縮しています。
 
蘇遙会の益々の発展、躍進、何時も横浜から応援しています。
 
平成30年10月10日 吉満 肇
 
(以上原文通り)
 
 
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  • 2つ目の就職先も5年目になりました。元気でフルタイム勤めています。(S50卒 T様)
     
  • 無職・独居。意味(言葉・文字・記号・画像)依存(想起・連想・記憶)の生活習慣(理解・判断・表現・行動)を解消中(行深般若波羅蜜多時)です。(S38卒 T様)
     
  • 益城町の自宅、やっと一応の修繕を終え、墓石の再建もできました。近々熊本市内の実家の解体工事が始まる予定です。工学部創立120周年記念式典で、復興への励みが高まることを期待しております。(S50卒 T様)
     
  • 工業会東京支部,山水会土木部会総会にはまめに参加し,皆さんと交流しております.(S42卒T様)
     
  • 歩行不自由でよく転倒します。最近も店頭で腕を骨折、治療中です。(S22工専卒 T様)
     
  • 病気のため、会社を完全リタイアし、現在は療養中です(S49卒 N様)
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中嶋國一様 ご寄稿

2018年01月22日(月)
前略
 大学を出て、50年。半世紀過ぎて、自分の来し方、職業の選択についての自分の失敗談書いて何になるのかと考えるが、本当に老婆心ながら、土木、建設会社に就職する方が多数なので不要と思いながら尚、迷っておられる方が一人でもいたらと思いペンを走らせております。

私たちは昭和19年・20年生まれの年代で、戦争は直には覚えていません。しかし終戦後の焼跡や闇市(やみいち)の存在を知る年代です。
 私は、もし自宅が貧乏でなければ“政治”に非常に関心があったので早稲田の政治学科に行きたかった。それで熊大の法科も考えましたが、教科書を長崎書店で読んで、又、はっきり言って、見栄もありました。法科は点数が低くて意欲がわかない。土木は“政治”に近いという何とはなしの感覚で土木科にしたというのが偽りない心境です。

 さて大学での4年間最初の2年間は教養ですからドイツ語とちょっと国文学をちょっとの勉強で、あとはバイトか遊ぶかです。教養の時間は今でも変わりないと思います。何か教養の時間に特別勉強してますか、是非お聞かせ願いたい。
 大学生時代は、本当に大切な、一生の友人を作る天の与えられた貴重な4年間でした。専門外の法科の学生、また女子大の女学生との一生涯の友を作る期間でした。
大学時代は早朝の牛乳配達を4年間、家庭教師を2年間、九州地区土木系学生会会長を2年間(今でも九州地区土木系学生会ってあるのかな)、話し方教室の副代表を2年務め、大学のコンパの後には新市街の歓楽街で安酒を飲みそこの女たちと話したことなど色々と思い出のある時代です。
 さて、専門課程の2年間では、施工管理の会社に進むなら会社の概要(資本金、従業員数、全国規模か地球規模の会社か等)熊大の先輩がいるならその人たちの出世の程度、他の大学が部長や専務になっているかなど調べました(会社四季報等などなどみれば十分)。専門を「河川」と望むなら「河川工学」の専門書5冊程度暗記するくらい学べば(独学で)充分でした。あとは卒業できるだけの「可」、「60点」以上であれば充分。
 建設会社(大成とか大林とか鹿島など)実習に行っておおよその察しはつくと思いますが、不安なら熊大の土木の先輩の所へ訪ねて行って仕事の内容、賃金、出世、退職後の事など充分下調べして、進路・会社選びをすればいいと思います。

 役所は専攻する人が少ないので参考意見として記憶に留めてください。
 私は大阪市役所の都市開発局連絡係に配属になりました。市の研修で先ず大学では、北海道大から東北大、東京大、大阪大、大阪市立大、京都大、徳島大、山口大、九州大、鹿児島大と専攻は別でも73名いました。その人たちが幹部候補生です。
 最初の2年間で役所での出世、給与、人間関係、組合の事、行政の事、大阪のしょって立つ日本での地位、等々つぶさにわかります。大阪市役所で局長になれるのは京都大学出身者のみ(一部東大もいるがわずか)、あとの大学卒は課長どまり。よくて部長だ、というのが実態でした。また、行政を経験して、政治家を目指す人もいました。行政については本も沢山出ているので、興味のある人は読んでくれたまえ。
 政治についても様々な角度から学んで欲しい。各政党のマニフェストや世界情勢を理解した上で、どこの党に投票するか決めよう。それが大学を出たと言う試金石だ!

 さて、現在は、幼稚園児相手に幼稚園でお話しや、小中高生との文通などと、そろそろ小中生への講演をしようと考えている。また、全国の障害者の方と文通したり、日曜日キリスト教の外人宣教師(アメリカが多いが)と、宗教は別にして文通をする予定である(英語の基礎の勉強優が今に生きる)。面白いぞ、生きるとは
 それでは長くなってご免。
草々
 
やわらかに 積もれる雪に熱てる頬を 埋むるごとき恋してみたし                啄木
夕立に心ときめき肩触れて ビルの谷間に消える二人よ                           雲
ブランコが上手にこげぬと甘ったれ 又もぐずるよその母みつつ                  雲

 
※ご意見やご質問のある方は下記コメント欄へメッセージを下さい。(中嶋)
 
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平成29年11月8日 KKRホテル熊本

 2年ごとに各地を回り同期会を開催しています。平成28年の熊本地震で開催を多少迷いましたが、復興の応援も含めて、10年ぶりに熊本で開催しました。
 ご婦人同伴の大沢、金津、春口君を含め17名参加となりました。会の初めに、(長嶋終生名誉監督に倣って)終生名誉クラス代表味澤君の挨拶と乾杯で開宴、しばらくの歓談ののち、近況報告に移りました。各君、それぞれに、趣味を楽しみ、地域活動に活躍され、充実した日々を送っていました。なかには、現役の人もおり、元気さに驚かされました。一方で、欠席の返事の中には、体調不良の人も数名いました。歳を実感しました。
 中締めは田島君の祝いの謡、平野君の巻頭言、武夫原で締めました。その後、部屋に移り、往時のこと、現況そしてこれからのことなど夜遅くまで語りあい、楽しい得がたい一日を過ごしました。
 翌朝は、熊本城天守閣の復興工事の様子が目の前に見えるレストランで朝食を済ませ、次回長崎か福岡での再会を約し、散会となりました。
文責 右田泰弘

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