大正13年(第1回)卒 岩崎正英
「吾」第1号を出したのは大正10年秋ではなかったかと思うが,戦災で焼けてしまったので正確な事は思い出せない.
「吾」を出した動機は極めてシンプルなもので, 20代の若い気持を内容の如何を問わず書いて一つの本の形にまとめると言う事が色々な意味で意義があるのではないかという所から,後に川崎重工で若くして亡くなった河野君,助手であった山村さん,それに私とが発議して同窓の皆に図って一決,原稿を集めコンニャク版で刷ったのか第1号である.
ここに標題の「吾」というのは,実は私が提案してつけられたものであって,誌とするからには何か適当を題名が必要と感じ,誌の目的がお互い同窓のいつわらぬ自分の姿,又心に感じた事を表現する,其の内容が何であろうと書いた当時の己の何かが,何等かの形で文の中に,又句の中に生きて残る筈であるという考えから生れたもので,之も初めは字としても意味としても強さを感じる所から「我」としようかと思ったが,「我」は「ガ」であり,関連熟語等を考えると何うも悪い連想が多い-例えば我利,我儘等-のでひびきは弱いが穏やかな而も意味深い「吾」を選んだ次第で,之また衆議一決し「吾」が誕生したのである.
即ち当時の考えとして,近頃の総合雑誌的な内容を更に上廻る(?)ものとし専門専門外を問わず論文であれ,小説,小品,翻訳,随筆,詩歌,日記,紀行文,さらに又惰筆何でもかまわない事とした「吾」の表現であるべきものとして出発したもので現にそのままの形が今日迄続いているのは真に嬉しい次第である.
第1号の内容を思い出して見ると長崎三菱から派遣され在学していた木田君も交え,同窓の総員が思い思いに迷文を書いた.事実各人の人そのものが第1号の短文の中に,いわゆる「吾」として現れていたと思う.之が卒業後40数年を経た今日,当時の己等の素直な思いを知る或意味の尊いようすがともなっているのは事実である.
ところで,此のささやかな考えの下に生れた「吾」が,恐らく当時の私達は,二,三回で終るものだろうと思っていたのが,思いがけずも今日尚活き活きと育ち続けて,否名実共に当時考えていたより雄々しくも其の強い足どりを進め続けている姿を見て,其の後の同窓各位の「吾」に対するはぐくみを感激せずにはいられない.しかも京浜地区には「吾の子」すら生れた事を思うと,生みの親である吾々,尚若い気持の古い者は感慨無量である.
世代は代っても「吾」の中に生きる真の姿は,その時の「吾」として永遠に尊くも生きるであろう.又之を信じたい.
乞わるるままに「吾」の標題の出来た経緯と当時の思い出を以上簡単ながら記し,併せて同窓各位のご自愛と御多幸を祈る.
吾31号,47号(再掲載)より