平成13年4月7日 於:東商会館
大 畠 正 賢 先生 大正12年(1923年)9月生まれ。高知県出身、廣島高等工業機械科(現廣島大学)卒業、東商での勤務は昭和22年(1947年)7月から昭和37年(1962年)3月まで、主として理科、数学を担任。 |
―――先生はお元気そうですね。 いや最近は目も耳も衰え、物忘れが出てきました、それに腰もいたくてね。まあ、それ以外はいたって健康です。毎日朝6時か6時半頃起きて、犬の散歩をし、それから新聞を2~3紙読んでその後朝食をするようにしております。午後は車で家内と一緒にスーパーへ買い物に行ったりもしますね。夜は大体9時過ぎには寝ています。マイペースの生活をしています。 ―――先生の趣味は何ですか。 碁や将棋のようなものは出来ないし、写真と車の運転それにオートバイによるツーリングが好きですね。一人で250㏄のオートバイに乗って、遠出をするんです。時には一泊で遠出をすることもあり、家族からいい歳をしてと言われています。 |
―――先生の生きがいというか精神的な支えというものは何ですか。
教員生活40年やっていて、教え子がいつまでも私を大事にしてくれることですね。東商では各期の同期会に呼んでくれるし、80周年行事にも招待してくれるのは本当に嬉しい。一昨年も盛岡工業100周年行事に呼んでくれ、家族の者が40年も50年も前の先生をなんで呼んでくれるんやろと不思議がっています。将に教師冥利につきるね。
―――先生の教員生活40年の赴任歴は?
学校を出て昭和19年9月30日付けで文部省から岩手県立盛岡工業学校教諭の辞令をもらいましたが、同日付けで海軍省から海軍予備学生の発令があり、在職のまま入隊しました。戦争中は特攻隊要員で終戦がもう少し遅ければ戦死してたでしょう。
終戦後盛岡工業に籍があったものですから、復職し3年間勤務しましたが、当時都島工業の校長が私の先輩であったものですから、高知の男をいつまでも東北に置いとくわけにもいくまいということで、ほんの腰掛け程度というつもりで東商を紹介され赴任したのです。昭和22年7月に3日掛かりで大阪に着き、広小路の校舎に行きましたが、戦災に遭いなんと汚い学校やなというのが第一印象でしたね。寝るところもなかったのですが、当時の岡村先生が八尾の養心学園に寝泊りするところがあるから、そこから通いなさいということで、毎日上六まで座席の上に立つほどの満員電車で通勤しましたね。上六から上二まで歩いていました。結局東商には、腰掛けのつもりが15年間昭和37年までおりました。その後須崎工業、高知工業と転任し、最後は校長を6年間やり、通算40年の教員生活を終え、昭和59年に退職しました。
―――東商での思い出話などを
広小路時代は戦後のドサクサでいろんな面白いこともありました、新2の吉川君などはよく知っているでしょう。久太郎町校舎への移転、男女共学と激変の時代でしたね。私の担当科目は理科・数学・国語・書道・保健体育・計算実務といろんな科目を持たされましたね。理科や数学は別として、他の科目を習った生徒は可哀想だったな。
昭和28年だったか自動車部というのが出来て私が顧問になり、ダットサンで稽古したものでした。その関係でウオーキングテストの実行委員長を仰せつかって、コースの選定をやったのも懐かしいし、水泳部の顧問もやり面白かったね。
私の教員生活で一番楽しかったのは、やはり東商時代ですよ。教師というのは生徒と年齢が離れてしまうと、どうしても生徒と心の触れ合いが出来なくなるのです。その意味で東商時代は若かったので、印象が深いんでしょうね。高知の工業高校赴任時代より、東商の方が懐かしいですよ。商業学校と工業学校との違いもあるのかもしれませんね。
―――東商時代で何かいやな思い出はありますか。
嫌な思い出は一つもないが、生徒が家庭の事情などで中退したり、自殺をしたりしたのが一番つらい思い出ですね。同窓会名簿にも載っていなく消えた者が未だに脳裏に浮かびます。久太郎の校舎に移ってから、当時は宿直があり3回泥棒に入られたのはいやな思い出でしょう。当時の泥棒は水道の鉛管や、姿見の鏡それに職員室の先生の引き出しに入れてあった米を盗むというようなもので、米の場合は屋上で炊いて食べてから逃走という時代でしたね。
大畠先生には、平成13年4月7日に行われた、東商創立80周年記念事業の大阪城公園での植樹式にご出席頂いた後、東商会館でインタビューをしました。先生がいつまでもお元気で長生きしてほしいものだとつくづく思いました。
インタビュアー 橋本節雄(新5)