戦時下の特異な東商像 | ||
1940年 (昭和15年) |
戦時体制に入る | |
学校の各種行事は勤労奉仕となる。 | 真田山プールづくりなど | |
野外教練・合同演習など盛んに実施 | 宿泊を伴い、行軍距離 40km | |
1941年 (昭和16年) |
太平洋戦争始まる | |
吹奏楽部 優勝 | 全日本吹奏楽コンクール | |
農場「養心学園」完成 | 八尾競馬場跡地 井野農林大臣命名 | |
養心学園にて食糧増産 | 生徒の勤労奉仕による | |
1943年 (昭和18年) |
学徒戦時体制確立 | |
商業科目は工業に変更 | 内容は勤労動員 | |
1944年 (昭和19年) |
浪華女子商業学校を設立 | 浪華小学校跡地(現在地) |
決戦非常措置 | 少年戦車兵・海軍予科練習生に志願・出陣も | |
学徒勤労令 | 大阪工廠・住友金属・久保田鉄鋼等 | |
1945年 (昭和20年) |
大阪大空襲 | 引率の先生は危険と判断したのか、解散避難となった。御堂筋に人がうつぶせに倒れている。この日はB29が458機来襲したとか。 梅新で人の手首が落ちていたが、誰も何も言わず通り過ぎている。この日、東商校舎は炎上した。(3期 佐野喜三郎氏) |
敗戦時の東商在籍生徒数 | 300余名 |
復興~戦後の高揚期 | ||
1946年 (昭和21年) |
日本国憲法公布 |
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ウォーキングテスト 復活 | ||
学生珠算競技大会 復活 | 東商・東珠会主催 第6回 | |
修学旅行 復活 | 別府温泉 | |
選抜入試 | 定員150名 志願者200名超 | |
1947年 (昭和22年) |
第1回国民珠算競技大会 旧20期 堅尾省三氏 優勝 |
そろばん 日本一 |
1948年 (昭和23年) |
新制高校発足 | |
市立浪華商業高等学校と男女共学 実施 | 旧 浪華女子商業学校 | |
校名を大阪市立 浪華又は東 東又は浪華 商業高等学校と呼称 | ||
広小路校舎と別離 | 生徒が三日掛りで現在地に移転 | |
1950年 (昭和25年) |
校名を大阪市立東商業高等学校と改称 | |
新聞部 「北斗星」 を創刊 | ||
体育祭はあやめ池にて開催 | ||
1951年 (昭和26年) |
硬式野球部大阪予選Aクラスに | 濱田投手ノーヒットノーラン達成 |
東商後援会発足 | 会長 寺内石夫氏 | |
1952年 (昭和27年) |
寒稽古始まる | ソフト・硬式野球・バレー・サッカー・卓球・陸上・水泳・柔道・庭球・軟式野球・弁論・文芸・速記・音楽部参加 |
入試定員300名 応募450名 | ||
1953年 (昭和28年) |
「就職は1月現在100%の好成績」 | 「北斗星」記事 |
1954年 |
自動車部 創設 | |
1955年 (昭和30年) |
ウォーキングテスト | 枚岡-菜畑-暗峠-市大植物園-成田不動男子30km 女子20km |
校舎建設促進委員会 発足 | 後援会・PTA・同窓会(寺内石夫会長) | |
1957年 (昭和32年) |
増築校舎竣工 (3階建て) | 体育館・和英タイプ・商業実践室 |
文部省産業教育指定校研究発表 | 新校舎にて | |
柔道部 優勝 | 府大会 | |
サッカー部 4位 | 府大会 | |
1959年 (昭和34年) |
卓球部 優勝 | 府大会数年連続。全国大会出場 |
百人一首かるた会 始まる | ||
1960年 (昭和35年) |
男女比逆転 女子漸増 | 新15期 38年卒 |
文化部 多彩 | 弁論・吟詠・速記・商業調査・地歴・文芸・科学・コーラス・郵便友の会・園芸・同好会など | |
1962年 (昭和37年) |
国民珠算競技大会 珠算部 優勝 | 団体・個人優勝は4年間続く |
雨池健三氏 そろばん 日本一 | 17期 40年卒 | |
ベビーブーム世代入学 | G組 増設 昭和37~41年 | |
1963年 (昭和38年) |
寒中登山 | この年度は六甲山 |
阪大移転の跡地問題 浮上 | ||
1964年 (昭和39年) |
「校舎建設促進委員会」発足 | 学校・PTA・同窓会・後援会 |
1967年 (昭和42年) |
移転・建設促進の陳情書 提出 | 校舎建設促進委員会 |
補習授業が行われていた | 放課後 | |
1969年 (昭和44年) |
体育祭 橿原神宮にて実施 | |
産業教育指定校となる | 市教育委員会 | |
高校紛争 市立の高校にも波及 |