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2010/04/26

東商9 0 年

 上村 静一(旧16)

 昨秋の16期会に集まったのは、わずか 5名。とうとうここまで来たか。盛時は30名超。昭和63年、卒業50周年には遠路からの来会者を併せて総勢62名が守口プリンスホテルの一堂に会した。その後、平成に入っても、長く20名を割ることはなかった。寂寥胸に迫るものがある。

 旧制16期生は第一次世界大戦の終わった翌大正9年(1920)東商開校の年に生まれた。言わば、東商と同い歳の「申し子」である。在学は昭和8年春から13年までの5年間。昭和初めの金融恐慌から、軍の政治支配下に思想、物資の統制が強化され、世情日々に厳しさを増していったが、入学当初はまだいくぶん大正デモクラシーの余韻も遺っていて、“昔恋しい銀座の柳”の向こうを張って、“赤い灯、青い灯”の道頓堀から「心ぶら」 を楽しむ若い善男善女の群れがあった。

 50周年のとき、卒業生191名中、戦死26、病死45、連絡不能23、を除いた97名について卒業時の住所を調べたところ、東区31、南区16、住吉区14、天王寺区12、東成区8、以下と続き、東区と南区とで、その半ばを占めていた。

 当時の大阪は、大会社は別として、個人商店では、店と家が一体で、「店の人」と主人の家族が同じ屋根の下で暮らしていた。東区は繊維、雑貨卸の店舗が多く、南区の機械屋の前を通ると、いつ買い手がつくとも知れぬ旋盤やボール盤の銹落としや、油拭きする少年の姿があった(戦災後、大方は今里筋へ移った)。

 天王寺から阿倍野、住吉方面へかけては、役所や会社勤めの人の居住地、また大正橋から港へかけては、海運、漁業関連の店舗が軒 を連ねていた。

 東商では、自宅から2㎞以内の通学は徒歩と決まっていた。町の子は運動不足で足が弱いから鍛えてやろうという親心からでもあろ うが、当時は地元意識が強く、自ずから通学区が出来上がって、その町の環境や気質が校風に反映した。

 東商生は情に厚いといわれる。信用取引が主流で、浮沈の激しい繊維、雑貨卸しの個人経営にあっては、義理、人情に流れることが 多く、共倒れも珍しくなかった。

 東商90年を世代に区分すると次のようになる。

1)創立から戦後にかけての旧制30年(広小路校舎時代)
2)新制高校発足から昭和48年の石油ショックの頃まで(旧校舎時代)
3)昭和50年代から平成へ新たな東商像への模索期(新校舎時代)

 独り善がりのようで、気が引け るが、大筋において認めていただ けるだろう。

 かつての“華の16期”も今年90歳を迎える。「事初めあれば、終わりあり」。抗し切れない時代の流れを痛感する。「小異を棄て大同に就く」

 東天の岡に啓明の輝くのを仰ぎ、 知情意を兼ね備えた新校の誕生を 期待しよう。

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