株式会社神光錻力印刷工場 代表取締役 「各種缶容器やフィルムへの立体印刷、高級印刷の技術は世界でもトップレベル」国内3工場、海外(中国)2工場
業界団体の理事長等歴任、黄綬褒章・勲五等瑞宝章受章
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――はじめに、東商時代の思い出を
昭和16年入学で、八尾の農場での校外学習や軍事教練、砲兵工廠での勤労奉仕が多くなりました。ウォーキングテストは懐かしい思い出ですね。
私は今でも時々校歌を口ずさみますが、後輩の皆さんも校歌が示す意味を噛みしめて欲しいと思います。きっと自分を励ますことが出来ますよ。
行軍演習等で、疲労でもう足が挙がらないと感じても、級長の塚田君の号令で校歌を大声で歌うと、不思議に足が挙がったものです。
――昭和20年の卒業後は?
陸軍衛生廠に入り軍属になりました。軍の仕事で広島に出張した帰りは列車の運行が止まっていて、一歩違うと、あの原爆に遭う処でした。駅前の広場で待っている人もいましたが、私は駅長に軍の公用章を見せて、停まっている列車内に寝させてもらい、難を逃れることが出来ました。
振り返ってみると、この頃までの体験がその後の人生によい影響を与えてくれたんじゃないかと思います。軍事教練の厳しさや、原爆や空襲、機銃掃射等で生命の危険を感じたことに比べたら、その後の苦労は苦労とは言えないんじゃないかと。
――終戦を迎えてからは
軍属での退職金250円を持って闇市で買ったパンが15円でした。何しろ物不足の時代で、物づくりの大切さを感じてヒロタブリキに入社。数年後、社長に認められ事業の継承を求められましたが、家族経営での古株の番頭さんとのトラブルの世間事例も知っていたので、義父の了解を得て、同業の別会社を興すことにしました。これが今の神光錻力です。親子で競合するものの、先を見て許してくれた義父には感謝しています。
――最新鋭の設備であったとか?
昭和28年でしたが、西淀川区の佃に最新鋭の輪転式印刷設備を持つ工場を造り、38年には吹田市で、佃の4倍の規模の工場をスタートさせました。
信条として、①他人に迷惑をかけない②絶対に他人の真似をせず、独創的に考えることを大切に、飲料、缶詰、お菓子等の色々な缶容器への美術印刷、立体(3D)印刷の技術のアイディア創造や技術の確立に努力しました。缶容器以外への用途を広げるために、樹脂や紙への3D印刷技術の開発に挑戦し、名刺やカレンダー、マウスパッド等の新製品を生みだすことが出来、好評を得ています。特許もかなり取っています。
自分で考えなければアイディアは生まれず、努力しなければ実現しませんね。
――海外への進出は?
米国等の技術も視察していましたが、設備は遅れていても、技術は負けていないと感じていました。製品を香港に輸出していたこともあって、昭和45年に取引先のルートで香港に合弁会社を設立しましたが、失敗でしたね。現地事情の理解をしないまま、香港の商業資本との合弁にしたことです。中国と日本ではお金に対する感覚が全く違うことを知らなかったのです。外国の常識は日本の非常識ということを学びました。合弁を解消し、独立資本での経営に切り替えることで乗り切りました。まだ日本企業の進出は少ない時代で、他からの援助は期待できず、自力で判断し、解決するしかなかった頃でした。 平成14年に中国・広東省に会社を設立した時には、先の経験を生かして順調にスタートさせることが出来ました。
――今は未曾有の不況と言われますが
中国工場での生産品は全て現地販売です。中国のマーケットは広く、日本よりも元気ですが、中国では今、労働争議が起こっていて大変です。共産国家でありながら、やっと昨年に労働法が整備され、結成された労働組合との合意がなければ労働者の解雇が出来なくなりました。
当社を含め、従来から日系企業は雇用を尊重する考え方でしたから、この影響はありませんが。
――経営者として大切にしていることは?
経営者の考えに対しても、賛成もあれば反対もあることを認識しながら、その考えが第三者的に役にたっているか?無責任発言で無いか?を瞬間的に判断しながら発言するようにしています。
実現が可能か?、今は出来なくても将来はできるか?、言っている自分が恥ずかしくないか?
を自問しながら、とも言えますね。
――最後に後輩の皆さんへのアドバイスを
社会は役立つ人を求めています。役に立てるかどうかは、自身で未来を切り拓いていく気概をもっているか?にかかります。目標がなければ苦労もないが、成功もありません。仕事は厳しいものとの意識が無いといけません。然し、追われ追われての生活ばかりでは駄目で、時々は自分を見つめ直す心の余裕を持つこと、他人のお陰があって現在の自分があるという気持が大切ですね。インタビュアー 高野浩吉(新10)国枝敏夫(新13)