株式会社コムデックス 代表取締役 施設開発総合プロデューサー |
――はじめに、東商時代の思い出を
昭和28年入学ですが、小さい頃から商売人になりたくて小学校からの親友2人と一緒に東商を選びました。クラブは何でもやってみたくて、柔道、卓球、吟詠、放送部等いろいろ経験しました。
――卒業後は?
全国に楽器を卸している会社に学校推薦で就職し、8年間、ずっと経理畑でした。
――独立されたきっかけは?
入社してから6年後頃の或る日、営業にかかってきた電話を取ったのが、大阪郵政弘済会からの「郵政職員に社内販売する楽器の斡旋依頼」でした。上司に報告したら、「お前が受けたんだから、一度行って来い」と言われ、弘済会を訪問しました。カタログ作りや値付けを任されてやってみましたが、これが良く売れましたね。その後、各地の弘済会を紹介してもらって拡販しましたが、“やはり商売って面白い”と思いました。
家内には内緒で会社を辞めて、3ヶ月間、商売のタネ探しをしました。職業別電話帳にいろいろな業種が載っているのに気付き、あらゆる職業を研究し、不動産業にたどり着きました。
――方向付けされた後は?
不動産会社に就職し、宅建取引の資格を取り、不動産業の経験を積み勉強しました。昭和43、4年頃に友人と共同で会社を設立し、土地分譲を中心とする建売事業を始めましたが、家内にやらせていた喫茶店の内装をしたデザイナーがなかなか優秀で、そのデザイナーと一緒に内装業をやってみようと思いました。喫茶店を50店以上作りましたが、新聞雑誌にも取りあげられて、他の業種からの依頼が増えました。
――ハードとソフトを兼ね備えたお店作りですね
クライアントには繁栄をデザインするというスタンスでハード面だけではなくソフト面を取り入れたものを提供するようになり、それが受け入れられました。当初は店舗が主体であったのですが、色々な商業施設の開発を行うようになりました。平成2年には豊中の自社ビルを含め、月に6棟の施設を同時に開発するなど、関西を中心に250棟を越える商業施設をつくりました。――バブル崩壊の頃は?
コンセプト通り開発した施設のテナントの撤退が相次ぎ、商業施設の開発が衰退し、やむなく40名余りの社員がいた会社を整理せざるを得ず、自社ビルも外資に売却しました。
その後は商業開発の手腕を買われ大手企業よりコンサルタント・顧問業の要請があり転進しました。ヤマハ、大関、アトラス、日三家具、設計事務所等です。
――施設開発の総合プロデュースとは?
その後ゼネコン、デベロッパー、設計事務所
等様からの要請があり商業施設開発のプロデュースを専門にする会社を立ち上げました。
プロデュースとは土地があってそこにどのような施設を創るかというコンセプトの立案から設計、施工、テナント誘致とある過程において総合的にプロデュースをしていくことです。
最近では「船場女将小路(H19)」、「船場茶屋小路(H20春予定)」、「京都六角道の宴ビル(H20秋予定)」等ですが、「京都の宴ビル」ではテナントの代りに当社が宴会の集客営業活動も行います。単なる箱物造りだけではなく、テナントの集客効果を高めるような企画プロデュースを行っています。他にファッションビル、オフイスビル、SOHO施設、美容健康施設、特化型ホテル、子供育成施設等々あります。
――このような考え方の源泉はどこから?
世の中に必要なものを創造していくことが、我々施設開発の携わるものの責務と考えます。土地建物は個人のものであるが、だからといって自由に創るものではないと考えます。やはり社会に貢献するもので無ければいけないと思います。建物のデザインは、周辺のランドスケープデザインとしての環境に影響を与えますし、中身においては生活者の生活環境に影響を与えます。
そのようなことから、世の中のニーズを予測し無いものを創造し、そこからニーズを起こしいくという手法です。
そのネタはあらゆるところにあります。新聞を見てもテレビを見ても、人との会話、街を歩いても電車に乗っても・・・あります。
要するに問題意識を持っているからです。
――最後に後輩の皆さんへのアドバイスを
早く自分の職業を見つけることだと思います。仕事はやりがいがあるもの、自分にあったものを見つけることです。それをいかに早く見つけるかによって自分自身に影響してくると考えます。仕事がうまくいくかはスキルとネットワークあるかどうかです。それを構築するに於いては、時間(年数)がある方が有利だからです。
インタビュアー 浜口卯一(新9)・福田博忠(新6) 国枝敏夫(新13)
平成20年2月21日
平成20年2月21日