昭和27年、郵便配達も、船場の商店の足も、自転車が主役で50ccのバイクも初期のものが市場に出たところであった。ホンダの赤い「カブ号」がでたころ、当時も就職難、読み・書き・ソロバンに加えて「自動車の運転」ができれば就職戦線にも有利と、高丸校長の時代に「ダットサン」の中古を調達き、自動車部創設の三沢先輩と 同期の寺内鉄郎氏(故人)の3名が、まずは「免許」をとり後進に指導することになった。
顧問は大畠先生。もちろん無免許、奉職中の先生方の誰もが運転経験のない時代であった。
工業高校には自動車部があったが、大阪の商業高校では唯一の存在でした。夏休み、大阪城内(京橋口から入った外壕と内壕の間)に試験場があり休日に藁縄を持って写し取ったコースをプールが突き出た狭い校庭に書き写し練習をした。
16才で「小型4輪」の免許資格があり、まずは3名が試験を突破。2学期放課後の練習は共にグラウンドを使う「サッカー部」等とイザコザがあったが、サッカー部と親交のある寺内氏が調整をしてくれた。
しかし、狭い校庭では限度があり、事務の上善先生や三沢先輩などのご尽力で現在の中央大通り「国立大阪病院」の北側、ちょうど法円坂の料金所あたりの使用の許諾を得た。米軍の大阪大空襲で灰燼となった陸軍歩兵37連隊の跡、昭和28年の寒稽古期間にショベルを持ち、「土方クラブ」の異名のもと焼け野原の土を盛り、坂道の中間停止のコースも作りました。教室を暖房した石炭ストーブのガラ(灰)を敷き込んだ練習コース、第8期の朝田修雄部長まで、延べ50人には免許を取ってもらったと思います。
習いはじめに「エンスト」はつきもの。バッテリーがあがるのでその都度ダトッサンの前でスターチングハンドルを回したのは隔世の感があります。
教官代わりばかりでは楽しくありません、東商名物「ウオーキングテスト」のときは「国分コース」と長柄橋スタート~茨木~道祖本~千里(1953.11.1)コースの運営・連絡に学校名の入った「ダットサン」で走れたのは得意げになれたいい想い出です。