1963.7 本館校舎新築地鎮祭 昭和37年に聖カピタニオ女子高等学校建設の第一歩が始まった。当時の瀬戸市長加藤章氏とカトリック名古屋教区長松岡孫四郎師の要請を受けて、イタリア・ミラノに本部のある幼き聖マリア修道会(聖バルトロメア・カピタニオと聖ヴンチェンツァ・ジェローザの愛徳修道女会)が、当時の教皇ヨハネ23世の許可を得て聖カピタニオ女子高等学校が創立された。 松岡司教司式による地鎮祭。まさに高嶺山に鍬が入れられた。それから40年間、神様のご祝福のもと、カピタニオの学校は歩み続けています。 |
駐日イタリア大使訪問
駐日イタリア大使ジェスティ氏夫妻の訪問により、教職員・生徒ともに改めて、世界のカピタニオの輪の中にあることを実感しました。 |
1975.10.9 修道会本部総長 来校 幼き聖マリア修道会総長マドレ・アンジェラマリア・カンパニーレの訪問。 当時は校舎前もまだ舗装されていなかったが、マドレの援助で舗装され、現在のスペランツァ棟(特別教室)も建設されました。 また、カリタスホーム竣工に当たっては、三つの鐘をイタリアから贈ってくださった。 鐘の名称「マドレの鐘」は、生徒がつけてくれたものです。(マドレはイタリア語で修道会の総長の意)修道会総長・修道会顧問の訪問は3年ごとです。 |
1977.10 聖カピタニオ像 建立 現在、通用門の入り口で登下校の生徒をあたたかく見守って下さる聖カピタニオのブロンズ像は、スペランツァ(特別教室)棟が新築された際に、聖カピタニオ女子高等学校の精神がますます浸透していきますようにとの願いをこめて、卒業記念品としてスペランツァ棟の西出入口に寄贈された。 制作者の高橋洋氏(当時、愛知県立芸術大学助教授)は、カピタニオに関するあらゆる資料をもとに、心を傾けて制作に当たってくださった。 |
1980.5 カリタスホーム落成祝福式 立派な講堂兼体育館として建設されました。地下には卓球場、ステージも高等学校のものとしては大きく、2階観覧席も広く、クリスマス会には3年生がキャンドルサービスで「まきびと」を、創立記念日・クリスマス会にはアリーナの在校生・教職員の聖歌合唱とともに聖歌隊がこの席で演奏します。 |
1981.2.23 教皇ヨハネ・パウロ二世 来日 東京・後楽園球場(現・東京ドーム)で行われた教皇ミサには、4万人の人々が集い、教皇の流暢な日本語によるメッセージに、参加者は大きな感銘をうけました。当日は一日中、吹雪だったが誰もが寒さを忘れたかのようでした。 |
1981.5 マドレの鐘 設置 おそらく日本で初めて、イタリアの本格的な教会の鐘が設置されるのではないかとカリスタホームの設計・施工にあたった竹中工務店の担当者から言われたほど、設置に難航した鐘ですが、それ以来、朝夕に鳴り響くマドレの鐘は人々の心を和ませてくれている。 |
1982.5.20~6.1 イタリア訪問 本校創立15周年を記念して、教員2名(下平隆次郎先生、撮影者の桑原稔先生)、生徒代表3名(1年生門田真理子さん、2年生辻敬子さん、3年生勝野陽子さん)が初めてイタリアを訪問。 案内役は修道会本部事務局長のSr.マリア・ビガノ(元本校英語科教師)。 |
1985.7 西校舎地鎮祭 定員480名で歩み始めた本校に、入学を希望する中学生が年々増加し、教室が不足してきた。その中学生の要望に応えようと普通教室6、コンピュータ教室1、会議室1を擁する西校舎を増築しました。 |
1965・1986 「校誌創刊」「はらやま」(1965年) 「ローベレ」(1986年) ローベレ・・・それは聖カピタニオが生まれ育ち、新しい修道会を発足させるほど、ほどなくしてその生涯を閉じられた本校ゆかりの地です。 「この学校が、当時の人々の間を爽やかな風のごとく駆け抜けて行った聖カピタニオのように、保護者の方々と教職員の間のモヤモヤを一掃する天然の涼風・息吹(プネウマ)といった存在となりますように。」ローベレの創刊号の後書き(九里彰先生)に記されたようにその役目は、現在は同窓生の間にも息吹となっています。 「はらやま」は、村瀬效先生が高嶺山地区の地名である「原山」の読みの「はらやま」をタイトルに、生徒達の文芸創作意欲を高めるために創刊してくださいました。 |
1988.4 スクールバス運行開始 スクールバス運行の基本は、登校に不便を感じている、あるいは、公共交通機関利用では費用負担が大きすぎる場所から通学する生徒のために始められました。 当初は2路線でしたが、生徒の通学区域の拡大とともに現在では、日進・藤ヶ丘・社台・平針・多治見の5路線で運行し、約230名が利用しています。 |