【旧制1945年卒】 「今喜会」の由来について

2013年10月22日(火)

 この度「今喜会」の皆様から、「今工100周年記念事業基金」への連名でのご寄付と、「今喜会」の由来についてのご投稿を賜りましたので、ここにご紹介させて頂きます。「今喜会」の皆様は、大正生まれの方たちと共に戦後の復興から今日ある日本の礎を築いて下さった私達の先輩で、今も年一回の寄合を楽しんでいらっしゃるとのことです。

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「今喜会」の由来について

2013/10/16  向阪 修一


 私達が母校の「大阪府立今宮工業学校高級機械科」を卒業したのは、我が国が第2次世界大戦(太平洋戦争、日本では大東亜戦争と呼んだ)敗戦直前の昭和20年3月でした。学友の十数名は既に海軍飛行予科練習生(予科練)陸軍特別幹部候補生(特幹生)などに志願して就役、卒業後も終戦までの5カ月にわたって、現役入隊する者が引き続く時代でした。そして8月15日の終戦を迎えましたが、日本国土の主要都市はアメリカ軍のB29爆撃機による本土空襲で焦土と化してしまいました。その後米英を中心とした連合国軍による占領政策のもとで、私達国民は食糧も物資も非常に乏しい中で、日本の復興を目指して頑張ることになりました。

 やがてこの荒廃した日本を一日も早く立て直すべく、私たち国民は一丸となって立ち上がりました。そんな中にあっての我が級友諸君の力は、この日本の復興に聊かでも貢献したものと自負しています。今工で習得した学業と技術を、それぞれの職業や持ち場で遺憾なく発揮したことと思います。

 少し世相が落ち着いた頃に、「今工会」の名のもとに数回の同窓会を開きましたが、その名称を機械科の「機」をとって「今機会」と名付けました。その頃は数十名の同窓諸君が集まりましたが、20年ほど前に「今機会」の名称を「今日あることを喜び合う感謝を込めた会『今喜会』」と改めることにしました。この名称は語呂が全く同じですので皆さんのお気に入りです。
 

 「今喜会」としての発足当時は20名ほどの集まりでした。年一回の開催で時々一泊旅行を兼ねた集いを続けていましたが、それもやがて1人減り2人減りとなって、生者必滅、世の習いとは言へ、残念ながら徐々に鬼籍に入る級友が出てきました。そしてとうとう出席者は10名になってしまいました。現在「今喜会」の諸君は、すでに85歳~87歳と年齢は一律ではありませんが尚且つ健在です。最近では爽やかな初夏の午後のひと時に食事会を開き、お互いにわいわいがやがやと駄弁を弄しながら親交を深めています。今後も更に最後の一人になるまで、この「今喜会」で頑張ろうと全員で誓い合っているところです。
 

       ※ 連名での振り込み人氏名(10名)は下記の通りです。

今 喜 会

青木 昂重 昭和20年高級機械科卒
川上 義太郎
岸本  宏
向阪 修一
諏訪園 勝誠
西尾  淳
新田 丈一郎
吉川 六郎
吉田  馨
吉田  和也

 上述のように我が「今喜会」の来歴と現状を記しましたが、何かの参考になりましたら幸いです。
 
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コメント 1 件

  1. 吉田和也より

    この度は母校の100周年記念事業への協賛として、昭和20年高級機械科卒業の10名が「今喜会」として参加させて頂きました。金額は些少ですがその真意のご理解を頂ければ幸いです。

    今回の件に際して事務局の西田先生・伊奈先生に色々とご指導を頂いた今喜会の吉田和也と申します。当会を代表して向阪修一氏が「今喜会の由来」として投稿させて頂いた通り、私共は昭和15年に入学以来学業中は勿論 戦中から戦後そして今日までの間も何とか元気で生き永らえて来た事に対して、常に今工出身者としての誇りと共に感謝を持って集い続けている仲間たちです。今回は又早速に「今喜会の由来」を上掲 頂き有難うございました。深くお礼を申し上げます。

    世情は何かと厳しい環境ですが、母校100周年事業の成功を心からお祈りをすると共に貴会の益々のご発展をお祈り申し上げます。


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