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加藤清正と大阪城の虎

関西武夫原会  法文学部 昭和41年卒
大阪観光ボランティアガイド  矢野 大輔
 
   令和4年(2022年)は干支で寅年です。寅は動物でいえば虎ということになります。虎は「一日にして千里を行き千里を帰る」といわれるほどの強靭な生命力を持っており、厄災を払い家運隆盛を導くといわれ、外敵を見据える強い視線から、魔よけの意味合いでも描かれています。
 特に今年は「五黄の虎」と言われ、五黄土星生まれの人は「周囲を圧倒するほどのパワーの持ち主で運気が強大」「強い正義感と信念の持ち主で、困難を克服する強い意志と行動力がある」と言われています。そのため五黄土星と寅年が合わさった「五黄の虎」に生まれた人は最強の運勢を持っていると考えられています。自分の考えや信念は絶対に曲げず貫き、強情で強引な性格の持ち主ということになります。
 
  ところで天下の名城大阪城の天守閣には最上階4面の黒壁各面に2頭ずつ合計8頭の大虎のレリーフが飾られていますが、わが熊本城の加藤清正公と何らかの関係があるのでしょうか。熊本城の創建者として加藤清正は熊本では清正公(せいしょうこう)、清正公様(せいしょうこうさま)と敬称をつけて呼ばれていますが、また加藤清正は虎退治の名将としてその十文字槍とともに高名な武将です。もちろん太閤豊臣秀吉の腹心として忘れられない存在です。加藤清正は太閤豊臣秀吉の創設になる大坂城の虎とどんな関係があるのでしょうか。大阪城天守閣の館長北川央氏の近著「大阪城 秀吉から現代までの50の秘話」(新潮新書)からその秘められた由来を紹介します。
 
  そもそものきっかけは文禄元年十二月に、肥前名護屋城にいた秀吉のもとに朝鮮半島に出陣中の亀井慈矩から現地で捕らえた虎一頭が贈られてきたことである。日本にはいない珍しい猛獣が贈られたことをたいそう喜んだ秀吉は、その虎を京都聚楽第の関白秀次のもとに送り、さらに後陽成天皇の叡覧に供するよう指示した。その後も、加藤嘉明・中川秀成・鍋島直茂・吉川広家といった諸将から彼らが仕留めた虎の肉や皮・肝などが相次いで秀吉のもとに送られてきた。そして文禄三年十二月二十五日、豊臣政権の奉行である浅野長政と木下吉隆の連署状で朝鮮出陣中の諸将に対し、虎狩りが命じられたのである。この虎狩りは「虎御用」と呼ばれ、年を取り体力に衰えの目立つ秀吉の養生のため、虎の頭・肉・腸をしっかりと塩漬けにして送れ、というもので、皮は不要なので好きにするがいいと伝えている。命を受けた諸将は競って虎狩りに精を出した。
 江戸時代に秀吉人気を決定づけた「絵本太閤記」には、加藤清正と後藤又兵衛の虎狩りに関するエピソードが紹介されている。清正のものは以下のとおりである。
 

 ある日、清正の陣中に裏山から大虎が現れて、馬を咥えて走り去った。夜更けにもこの大虎が現れて小姓の上月左膳が食い殺された。我が武名の恥辱を晴らさんと、清正は数千の軍勢で山を取り巻き、鐘を鳴らし、鼓を打って、かの大虎を追い立てた。ようやく姿を現した大虎は毛を逆立て、大口を開いて飛びかかってきたが、清正は家臣を止めてただ一人で大虎に立ち向かい、狙いを定めて鉄砲を放ったところ、見事弾丸が口中を貫き、大虎を仕留めたという。清正が仕留めたという虎二頭の頭蓋骨が名古屋の徳川美術館に所蔵される。清正の孫娘が旗本の阿部家に嫁いだ際に持参し、同家に伝来したもので、享保十五年には将軍吉宗にも披露された。「絵本太閤記」には生け捕りにされて秀吉のもとに送られてきた虎の絵も掲載されているが秀吉はそうした虎を檻に入れ、大阪城で飼ったとも伝えられている。

 ところで復興天守閣が竣工して四年後、昭和十年に、東京巨人軍(現読売巨人軍)に次ぐ第二のプロ野球チームとして大阪タイガーズ(現阪神タイガース)が誕生した。タイガースの名称は阪神電鉄社員の公募によって決定されたといい、(中略)当時のプロ野球連盟の関西の責任者は、復興された新たな大阪のシンボルとなった大阪城天守閣の虎がチーム名の由来であると伝えている。(以上、大阪城館長北川央氏の著作から引用しました)